英語で
”I’m sure of ○○”
というと
”○○を確信している”
という意味になるようです。
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「確信」はかっこいい
たまに
A:「○○を確信している」
で締めくくる文章やコメントを目にすることがあります。
力強い印象を受け、何だか自信ありげでかっこよく感じます。
一方、
B:「○○じゃないかと思う・・・」
という締めで終わる文章もあります。
少し頼りなく、自信なさげに受け取れなくもない。
誰かの「確信」や「自信」は必ずしも現実を動かさない
ただ、AもBもある時点での誰かの「確信」や「考え」を述べただけに過ぎません。
基本的に本人がある考えを「確信」していようがいまいが、他者には他者の立場があります。
他者にとって大事なのはその考えに至る筋道や過程だったり、背景にある理屈や事実のかみ砕き方、あるいは説得力だったりする訳で、ある人のある仮説への自信の程度自体はそれほど重要ではないと思われます。
少し引いた目線で考えます。
わたしが30年後の株価の上昇を今「確信」していたところで、実際に株価が上昇しているでしょうか?
それは分かりません。
※例えばTOPIXは約30年前の1989年末「2881」でしたが、2019.4.9時点で「1619」です(-43.8%水準)
わたしなどではなく著名な投資家や有名人が将来の何かを「確信」していたところで、実際どうなるか、先のことは誰にもわかりません。
誰かの「確信」が現実を自由に動かすことはない。
もし動かせるなら、信じる強さが現実を自由に動かし得るなら、病気で苦しむ人がいなくなり、みんなお金持ちになっていそうですが、幸か不幸か、そんなことはありません。
もちろん強い想いや確信を原動力に現実が動く場合も実際に多々あると思いますが、動かない場合もある。
それは時と場合によるのではないかと思います。
誰かの「確信」に頼らず、期待値が高そうな取引を積み上げるのみ
私見に過ぎませんが、不確実な未来を相手にする投資や資産運用においては(自分自身のものも含めて)誰かの「確信」に頼るより、自分なりの判断の根拠(それも頼りないものですが)を少しずつ築いていくしかないようです。
判断の根拠は一般的に
★過去データ
★長期的な経験則(歴史、株式インデックスへの長期投資のリターンはプラスであることが多かったとか)
★それなりにまっとうと思われる理屈、投資理論(金利上昇で株価は下げやすいとか、分散投資理論とか)
★個人の経験、常識
★個人の勘、感覚
などでしょうか。
そして、それらの自分なりの根拠に基づいて
「自分が感じる期待値が高そうな取引を粛々と継続実施する」
あるいは
「相対的に期待値が高そうな取引はロング
相対的に期待値が低そうな取引はショート
というポジションを同時に持ち続ける」
という作業を粛々と続けていく。
そういう作業の連続がわたしなりの”長期投資”のスタイルかと感じたり。
※期待値が高そうな取引例(個人の勘です)
・景気がよくなっていく時期に株や不動産を買う
・景気が悪く市場全体のPBRが長期平均より低い時期に株や不動産を買う
・恐怖指数がとても低い時期に株価指数のプットオプションを買っておく など
もちろん投資の目的やスタイルは人さまざま、「短期的なキャピタルゲイン獲得派~長期的なキャッシュフロー増加を重視派」 まで振れ幅は大きいと思われますが、どんなスタイルにせよあまりにも過度な信頼は少しリスキーか。
誰かが成功を確信していることと、実際に成功できるかどうかは分けて考えた方が無難、と感じたりする今日この頃。
今まで散々自信のあるポジションでも数々の敗北を重ねてきた(自分自身の過度な”自信”に騙され続けてきた)者の辛気臭い所感ですが。
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