厚労省が勤労統計の全数調査を怠り、正しくデータが調べられていなかったらしいことがニュースになっています。
わたしなりの「データ・情報とのつきあい方」について、徒然に書いてみます。
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①:他者を指導する立場のものが常に正しいとは限らない
厚労省は医療器具のデータ改ざんを行う企業を処分したりします。
が、処分する立場のものが常に「正しい」わけでもない。
②:データに明らかな誤りがあっても、すんなり認めない組織もある
記憶に新しいことですが、日銀の資金循環統計の投信保有額のデータがとんでもなく間違っており、というニュース。
いわゆる「貯蓄から投資」があまり進んでいなかった可能性も示唆。
上記記事によれば日銀は「ミスという認識ではない」という見解のようですが、何をいいたいのかわからず、常識的にはミスでしょう。
③:データを「正しく」調査しようとするものへ圧力がかかることも
大昔のことですが、下記書籍によれば、世界大恐慌の頃、ときの米国大統領フーバーは失業データを管理する国勢調査局と労働省に「数字をいじれ」という圧力をかけたそうです。
政治指導者としてはどうにかして「いい数字」がでて、景気が上向いていってほしい。
人情としてはわからなくもないですが、露骨な不正。
最終的には労働統計局長までが政府が出す失業者数を公然と批判して退任に追い込まれた、とのこと。
<参考>
『世界恐慌(下)』ライアカット・アハメド(著)筑摩選書 2013年
データは基本的に人が扱うもの、常には完全でないことを意識せざるを得ないか
データは人が扱うもの。
ビッグデータをAIが分析して物事が動いていても、最終責任は「人」にある。
人がからむ以上、そこに「何らかの意図」「偏り」「誤り」「不正」などが入り込む可能性を完全に排除することはできないと思われます。
結局、そのような
「不完全さ」
を前提につきあっていくしかないように感じます。
そして、この「不完全さ」はデータだけでなく、あらゆる「情報」「解釈」「意見」にも紛れ込み得ることは意識せざるを得ないところかと。
※わたしもちょくちょく判断を誤ります
したがって、「完全でない」ことを前提に、ある程度おおらかな態度で
「自分なりにデータや情報とどう付き合うか」
という視点が必要なのかなあと思います。
※「人が常に間違う」「人は間違うからダメ」といいたいわけではありません。「人や組織が常に完全に正しいわけではない、だからときどき誤ったデータや情報も出てくる」「よって、そういうこともある前提で付き合う方がよいか?」という趣旨です
わたしなりの付き合い方
利用するデータ・情報をどの程度信頼し、どうつきあっていくかは
「データ・情報を用いるサイド」
の問題でもあります。
特に投資界隈では
●自分を大きく見せたい!
●お金が欲しい!
●信者募集!
みたいな風潮は強めと思われ、わたしはそういう生々しく混沌とした世界は別に嫌いではないですが、
★基本的には情報や主張、データの【根拠】をきっちり確認した上で評価、利用していく
★過去のデータ的な根拠もないことは、いくら熱意をもって説明されても信じ込まない
★人の主張の裏には何らかの動機、意図が潜んでいることもあり、主張者の立場や真意をできる範囲でくみ取る
★一つの情報源、一つの角度だけを根拠に決めつけず、できれば複数の情報源、複数の角度から物事を自分で手間暇をかけて確認する
などの態度は、自分が後々
「嫌な思いをしないため」
に役立つ態度かもしれません。
投資の世界は基本的に「自己責任」。
”リスクをとらないリスク”
”あくまで過去の実績ですが、○○年で年率○○%のリターンでした”
など、その気にさせるような文言で投資に誘い、結果うまくいかなかったとき、資金援助して助けてくれるような人の話をわたしは聞いたことがありません。
・人任せにせず、ある種、企業経営者のような気持ちで
・自分で汗をかいて情報やデータを分析し、考え、最終判断を下し
・リスクをとった責任は自分でとる
そういうスタンスの方が、時間はかかっても長い目でみると自分の成長にもつながってプラスかも、と個人的には考えますが、これはおそらく少数派のスタンス。
一般的には
わたしは基本サラリーマン、そんな暑苦しいのはいや、もっと気楽に手軽にスマートに投資したい
という意見も正しいと思うので、結局、データ・情報・投資との付き合い方は、その人の好み・ニーズ・目的次第と感じます。
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